夢野久作について
夢野久作といえば、ドグラ・マグラで知られています?が、ジャンル分け不可能な作家として私の中では確立した存在です。推理小説家といえばそうでありますが、読んでいるとトリックがどうの、ロジックがどうの、といった存在ではありません。そんなことを超越した存在でジャンルは何かと聞かれたら、迷うことなく「夢久作野」と答えます。私にとっては唯一無二の作家であります。
時には純文学風でありながら純文学とは真逆な作風でもあり、単に推理小説・ミステリー小説・恐怖小説という枠には収まらない無軌道さと、一方ではあまりにも無垢で無知な人物像を描いていたりもします。しかし、それは作者自身がどこか不器用ですがすべてを見透かしているような、不思議な感性の持ち主である現れではないかと私は思っています。
妖しい登場人物たちが出てきます
本作はその雰囲気作りが絶品であります。妖しい演劇を出す劇場興行主、その興行主の養い子である妖艶な若い女優、いわくがあり過ぎである劇場支配人、なぜかひいきにされている脚本家とその妹の声楽家、とにかくあやしい登場人物ばかりが出てきます。登場人物がみな色々と変わった生い立ちであり、変わった生き方をしてきているといった設定が妖しいし気分にさせます。
これだけ妖しい人物が登場するのであれば何かが起こらいな訳がありません。そして事件が起こります。前半は猪村、文月両巡査という警察関係者の会話形式で事件のあらましや捜査状況が語られていきます。しかし、この猪村巡査というのが、かなりおおざっぱで細かいことは気にしない、でも先輩風をふかして自分がさも物知りかのように振舞える人物です。人をくったような、とぼけたような猪村巡査と後輩の文月巡査とのやり取りは笑えます。
事件は意外な早さで犯人逮捕がされて解決に向かっていきそうになりますが、そうすると物語がもう終わってしましますが、そう簡単には終わらないのが推理小説・ミステリー小説です。物語は二転三転していかないと面白くありません。猪村巡査の説明が終わったら、そこは小説の設定が劇場でありますから、あたかも一幕が終わり次の幕が上がるかのように場面転換していきます。この場面転換のガラリもいいアクセントになっています。
呉羽嬢が飛びっきりの舞台を演出します
養い親である轟久蔵の生い立ちから、呉羽嬢自身の生い立ち、事件のカギを握る生蕃小僧なる人物との因縁が、舞台であきらかになっていきます。本当のことを脚本化してしまったら、それこそ劇場にかけられない時代でしたので、当たり障りないような脚本となっています。それが実際に劇場で演じられると(もちろん本当の脚本内容は全然違います)まったくちがう様相となっていきます。
演劇が進むにつれて、観客の反応は本書では次のように語られています。
「シバイダ……シバイダ……」
「ドコマデモ徹底的な写実劇だ」
「スゴイスゴイ深刻劇だ」
つまり演出なのか事実の暴露なのか、それすら分からないくらいリアリティーがあるということです。もちろん呉羽嬢は真実を演劇にして公演しているのですが、見ている方はそんなことはないだろうと考えて、あくまでこれは芝居の中の話だと思う人がいたり、逆に目の前で起こっていることは芝居ではなく、本当に今起こっていることだと認識する人がいたりと、悲喜交々といった具合です。
分類不可能作家「夢野久作」
本作はどちらかといえばわかりやすいミステリーですが、久作の本領は分類不可能、分類することに意味を感じない、無軌道で破天荒な作風にあると私は思います。夢野久作の書いた文章を読んでいますと、小説を読んでいるのですが彼本人の姿がダブって見えてきてしまいます。久作節といいますか、久作だよねといつも思ってしまいますが、夢野久作という枠ができてしまって作者も読者もその枠におさまってしまう感覚があります。
知名度があまり高くない、それこそ推理小説・ミステリー小説好きの人は知っていますが、そうではない人にはあまり知られていない作家だと思います。しかし、私にとっては一番好きな作家なのでこのサイトでは今後も久作を取り上げていきます。
以上