バブル期の就職事情について
1990年代前半から中盤の頃の話です。この時代はバブルが崩壊した景気低迷期にあたります。そして失われた30年ともいわれる時期の入口にあたります。そんな時代に新卒で就職しましたが、就職氷河期のほんの少し前でしたので就職活動には困りませんでした。ちなみに新卒で入社した会社ですが私の下の代はいませんでした。
後の時代のようにエントリーシートを100社以上に送るようなこともなく、就職情報誌の巻末についているハガキを使って会社案内を請求し、直接各企業に電話して会社訪問をした時代です。今と比べたら牧歌的とでもいえばいいでしょうか。メールもインターネットもまだない時代で連絡する手段は郵便と電話でした。
三越前はどのようなところか
そんな新卒で最初に入った会社の最寄りが三越前駅で、当時使っていたのは営団地下鉄銀座線の三越前駅でした。営団地下鉄(帝都高速度交通営団)ですが、現在は社名も変わり(東京地下鉄株式会社)、通称、東京メトロと一般的には呼ばれています。(東京メトロが会社名ではないのだと、ちょっとびっくりしましたが)
所在地は東京都中央区で銀座線神田駅と日本橋駅の間にある駅で、老舗百貨店の三越日本橋本店があり、ここが駅名の由来になっています。いってみれば江戸の町の中心地である日本橋がかかっている場所で、もちろん今の日本橋は後の時代にかけ直しされたものですが、今でも日本の道路の起点となっていることには変わりありません。
あまりにも日常に溶けこみすぎて
この三越前の記憶はやはり日本橋になります。地名ではなくて川の上にかかっている橋の方です。通勤時に三越前駅で降り改札を出て、地下道をまっすぐ日本橋駅方向に進んで端っこまでいきます。そして地上に出るとちょうど日本橋の橋のたもとに出ます。ただし橋はわたらずに横目でみながら通勤していました。
日本橋とは自分にとって何だったのか?振り返ってみるとそこは職場の近くにかかっている橋であまりにも日常に溶け込んでしまっていたものでした。日々当たり前のように横目でみて通勤し、お昼時には橋をわたって食事にでかけたりしていました。ただ、日本橋をはさんだエリアは老舗が並んでいましたので、街を歩きながらちょっとした観光気分を味わえることはありました。
橋の上の首都高がなくなる?
あまりにも日常に溶けこんでしまった日本橋ですが、橋をわたっている時に首都高が日本橋をふさいでフタしているように感じることも当然ありました。橋の上に道があることがどうしても不自然に思えてしまいましたが、人は慣れてしまう生き物なのか、それすら込みで日本橋と感じるようになっていました。
そして、日本橋地区の再開発が進んで高層ビルが並ぶような大きな変貌をとげていますが、まだ行っていませんのでいつか見にいってみたいと思います。また、日本橋の上を通っている首都高の一部地下化によって、日本橋の上から首都高がなくなる構想もあります。はたしてその時までわたしは達者でいられるでしょうか。
以上
参考:
首都高速道路株式会社
START!新しい道へ!日本橋へ! | 首都高速道路日本橋区間地下化事業
https://www.shutoko.jp/ss/nihonbashi-tikaka/